某番組で障害者が頑張ってると感動されるパターンもあれば、社会に受け入れられるために頑張ってないと批判されるパターン
ややズレ感あり
障害は、彼らが障害なんじゃなくて、彼らが社会の中で感じるのが障害
彼らは僕らと同じ
甘い方に流れるし、異性も好きだし、さぼるし適当にはぐらかす
↓
— ASTEP@放デイのぼやき (@ASTEP1290957) February 18, 2025
障がいがある人は、どう見られているのだろう?
がんばっていて、純粋で、心がきれいで、裏表がなくて、優しくて、笑顔が素敵で、まじめで……
そんなイメージを持っている人、多いんじゃないでしょうか?
「障がいがあるのに、一生懸命がんばってる!」って感動して、「私も頑張らなきゃ!」と励まされることもありますよね。
でも、その一方で、彼らは社会の中で受け入れられるために、「がんばること」を求められたりします。
もし、がんばっていなかったら、「それはおかしい」と思われてしまうことも。
でも、それって、「障がい」を本当に理解していることになるのでしょうか?
「障がい」って、彼ら自身のことを指すんじゃなくて、社会の中で感じる生きづらさのことだと思ってます。
彼らだって、私たちと同じように、楽なほうに流れるし、その日暮らしなこともあるし、好きな人にはときめくし(笑)、ときにはサボったり、適当にごまかしたりもするし。
つまり、決して「特別なすばらしい人」なわけじゃなくて、僕たちと変わらない「ひとりの人」なんですよね。
(もちろん、中には「すばらしい人」もいますが、それは障がいの有無に関係ありませんよね。)
はじめて会うと、「がんばってるなぁ」と思うことがあるかもしれません。
それは、人と接するときに「いい子」でいようとする演技派の人もいるし、あなたが持っていた「障がいのある人のイメージ」とのギャップがあるからかもしれません。
でも、しばらく付き合っていくと、彼らの「素の姿」が見えてきます。それこそが、本当の彼らの姿なんです。
もう一度考えてみてほしいんです。
あなたは、誰に何を求めたいですか?
社会に合わせようとする障がいのある人?
それとも、障がいのある人に合わせようとする社会?
彼らは「こうあるべき」と決めつけるんじゃなくて、彼らの持ち味がちゃんと発揮できる場を、私たちが作ればいいんじゃないでしょうか?
そうすれば、彼らが感じる「障がい」そのものが、少なくなっていくはず。
彼らの力を引き出すのは、社会に適応させるためではなく、彼ら自身が持っている力を、もっと使いやすくするため。
だからこそ、支援をしていくし、だからこそ、自立について考えるべきなんですよね。
でも今の社会では、「社会に合わせるための教育や支援や医療」が当たり前のように行われています。
それって、本当に正しいのでしょうか?
もちろん、僕自身も支援をする中で、「知らず知らずのうちに、社会に適応させようとしていないか?」と自問自答することがあります。
この部分、すごく間違いやすいんです。
まったく同じ支援をしていても、自分がどこを向いているかによって、結果は変わってきます。
もし「社会の側」を見て支援をしていたら、知らないうちに「障がいのある人ががんばる仕組み」に組み込んでしまうかもしれません。
でも、「本人のこと」を考えて支援をしていたら、彼らが持っている力を活かしやすい環境を作ることができるはず。
だからこそ、「私はどこを向いているのか?」を問い続けながら、支援のあり方を見直していかないと、と思うところです(自戒の念を込めて)
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